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Forest Instructor Association of Japan

「明治伐木運材図絵」を通して明治の山仕事を読む1

                                      執筆:羽鳥孝明氏(東京5-0145)

はじめに

 今の世の中では分かったつもりでいるのですが、分かっていないことが多くあります。ついこないだまであったものが、いつの間にか消えてしまい、若い人たちから「それは何ですか?」ということはよくあります。「着物」「日本髪」など、外国から見た日本人のイメージであるが、ほとんどの日本人は着物を着ていない、それも一つかもしれません。ふと気がつくと生活スタイルと共に見えなくなったものはたくさんあります。昭和は遠くなりにけり。大正・明治はもっと遠くなったのではないでしょうか。
 昔の山仕事の聞書(山の親父のひとりごと)をまとめていたときに、電信柱(電柱)の写真を見つけるのに苦労しました。当然木の電信柱ですよ。山の仲間に聞くと「そんなのいくらでもあるだろ」と返事は返ってきます。「どこにあるの?」「そういえばどこにあるのだろう?」ということになっていました。「コデン(子電・小電?)」等という言葉はどれくらいの人が分かるでしょうか。電信柱の細く小さい物です。栗の枕木などは見たことのない人の方が多いかもしれません。足場丸太などというと若い人には分かってもらえないでしょう。
 機械化以前の山仕事などはその顕著なものではないでしょうか。現在の機械化された作業現場では、鋸や鉈などを使っていないことが、よく見られます。今に忘れられてしまう道具の一つかもしれません。昔使われていた伐倒用の大きな鋸などは誰も使っていないので、どんな鋸をつかっていたか、もうすぐ忘れられてしまうのではないでしょうか。完全に忘れ去られる前に、少しは記録に残せないかなと言うことで、昔の山仕事の聞書をやってきました。私が聞いた話は大正末期・昭和の初期に生まれた方の経験がほとんどでした。明治大正昭和初期にどのような作業が行われたか、それは聞き出すことは不可能でした。
 

「明治伐木運材図絵」を通して

 
図1 山入り
 
図2 詞書き
樵の仕事は住居の近所ばかりには無い
奥山に小屋をかけ寝泊りして暮すようなこともまゝあるのである
叺(注1)に鋸斧鉈などの道具を鍋釜みそ醤油の食料さては寝具まで背負うて山入りする



 群馬県高崎市(烏川上流)で市川八十夫さんのお話を伺っていたときに、市川さんの所有されている絵巻物を拝見させていただきました。明治時代の山の作業が描かれたものでした。このような、描かれた「山仕事」はあまりないので、この絵巻物を見ながら昔の山仕事を見ていきたいと思います。この絵巻物の作業地がどこだか分からないので、ここでの作業等の説明は烏川上流の下記の参考文献を元に説明をし、私の聞書フィールドの東京の西多摩地域の話も入れながら見ていきたいと思います。

 作者の言葉によると「未だ機械の表れざる明治の世は如何にして木材を切り出したるか其の技術と努力を後の世に語り伝えんと発願したるは吾妻の山かつの子に生まれたる田中萬藏時継昭和三十四年五月還暦後二年於高崎翠璋画坊」
私が行っていた聞書と同じ思いで書かれたものでした。
 作者の田中万蔵氏は明治31年生まれの日本画家であり、小学校の校長でもありました。還暦を過ぎて、材木商である「山かつ(屋号)」の子として見た、昔の人が「機械の表れざる明治」に、どのような「技術と努力」を以て「木材を切り出したるか」ということにたいする敬意を表すとともに、「其の技術」を後世に伝えておかなくてはいけないという使命感によって描かれたものです。昔を思い出して描かれているので、思い違いや忘れていることもあるかもしれません。しかし、彼の思いが、印象に強く残っていたことが、描かれているに違いがありません。「機械の表れざる明治」の「技術と努力」を 時代の息づかいを感じたいと思います。いわずもがなですが、「技術と努力」は今は見られないと作者は思っているということです。

 この絵を見て、皆さんはどこに目がいったのでしょうか。
 この描かれた一人一人の顔の表情が微妙に違うのが分かるでしょうか。虫眼鏡などで拡大をしてみてください。日本画家の素晴らしい技が見られると思います。私が今はまっている「飛騨資料 運材図会」なども、単純な線の顔かたちの中に一人一人の表情がよく描かれています。機会がありましたらそちらもご覧ください。
 さて、元締(もとじめ)が山主から山(立木)を買う。元締の下の「サキヤマ(先山)」が山に入り、いろいろと状況を調べて、日傭(労働者)の人数や日数を計算をして、元締に報告をする。「サキヤマ」は現場監督から総支配人的な役割をします。「サキヤマ」という言葉は地域によっていろいろと使い方が違うので、注意を要します(注2)。
 
 「サキヤマ」が地域の人を雇って、山の中に入っていくところの画でしょうか。先頭を歩いているのが「サキヤマ」かもしれません。山の飯場に泊まり込みで作業をしたのは、伐出作業をする人たちにとっては当たり前のことでした。山小屋では作業員は1畳程度のスペースをあてがわれ、中央の囲炉裏側に頭、壁側に荷物を置くということをよく聞きます。荷物があるので、壁側を歩くことはしない決まりだったそうです。ここではどうだったのでしょか。
 お宮が右上にあります。山の神かもしれません。危険を伴う山仕事に入る前には必ず、山の神にお参りをして無事を祈ります。群馬県桐生市の方は、山での参拝は当然として、毎日奥さんがご主人の無事を祈って、炊きたてのご飯を神様にお供えしていたという話も聞きます。作業現場にお宮があればそこで参拝をするし、それが見つからないところでは、作業現場を見渡せる高いところに、神様を奉って参拝をするということもあります。山作業の危険なことは彼らが一番分かっているので、どのような形にせよ神様に安全を祈願します。
 先山に雇われた人たちが、道具を持って山入りをするところです。背負いかごの中には「鋸斧鉈」などの道具が入っています。現場によって、何日も何ヶ月も山の中に宿泊することもあります。その時は、小屋作りから始めます。現場の木を伐り小屋を組み、その木に枝や皮で屋根や壁を造ります。小屋の中の寝床もそれらを利用します。当然薪にもなります。
 杖を持って歩いている人がいます。その辺の枝や木を持っているのでしょうか。疲れにくいのと、歩きやすいので持っているのでしょうか。この杖で歩く先にある木っ端などをちょいちょいと横によけて歩くと、次にここを歩くときに歩きやすくなります。何気ない杖が次の段取りのために、働く姿を何回となく見たことがあります。歩く度に、落ちた枝などが邪魔になりがちな、作業を進める事を考えると、「邪魔な物を横に寄せる」という、何気ない小技があるのだと感心をしました。
 木の枝に葉がついていませんから、秋から冬の状況を描いたものかもしれません。当時は、一年中山仕事に関わる人もいますが、半農で農閑期に山仕事に雇われて作業をする地元の人も多くいました。その人たちが今、期待を膨らませて山に入っている姿がこの絵ではないでしょうか。後ろから三番目に人の指さしている姿などからそう考えるのは考えすぎでしょうか。この一人一人の顔の表情から、期待に膨らませているとやはり考えてみたいと思います。その期待はどのようなものかは分かりませんが。
 持っていく道具は何だったのでしょうか。腰には鉈を差しています。篭の中に何本かの柄がありますが、斧と鋸は想像できますが他はなんでしょうか。袋の中に食料などがあるのでしょうかね。まずは山に入っていきます。
 次回から、伐採・出材の画を見ていきたいと思います。



(注1)叺(かます)。ムシロやゴザを袋状にした物。後ろから三番目の人の担いでいるもの。 
(注2) 最初に木を伐る人、大木を伐る人、等いろいろあります。

参考文献(市川八十夫さんの個人的にまとめであるため 発行はされていません)
 @山仕事のうつりかわり(平成3年 倉渕村文化講座草稿)  
 A仮称 倉渕村古老の聞き取りノート(昭和45年から昭和58年聞き取り)

付録

  写真1は西多摩地域の檜原村での山の神を奉ったところです。組で山にみんなで最初に入り、山割り(一人一人の持ち分の場所を決める)の後、奉ります。山の高いところ、作業現場を見渡せる位置に奉ります。細い木を二本取り、一本は皮をむき1本は皮をつけたまま、枝を切り取ります。残った梢や切り取った枝などすべてを剥いた皮で結わきます。そこに写真2の「御神酒スズ」をつけます。竹の節を二つに切るが最後の部分を切り離さないで折り曲げ、幹の中にお酒と杉枝を差し込んで、捧げます。お酒はみんなで一口ずつ飲んで、その日は下に降りて、山割りのくじ引き(誰がどの場所を作業するか決める)をしながら酒盛りです。
 皮を剥いた木を右に「天照大~宮」、川のついた木を左に「豊受稲荷大神宮(豊受大神宮)」と奉ります。この祭りを「オイセギ」といいます。
写真1
写真2